岩船寺 京都ゆうゆう歴史街道いづみ路読本

岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である。
正式には高雄山報恩院と寺号する。

寺伝のよると聖武天皇が出雲国不老山大社に行幸せんとされて丹波の国四位まで進められた時、ご夢想があったので直ちに還幸。鳴川の善根寺に籠居せる行基に仰せて、一宇の阿弥陀堂を建立せしめ給うた。

その後、弘法大師の姉の子になる智泉が、新たに報恩院を開基。嵯峨天皇の勅命を奉じて皇子降誕を祈請した法験空しからず、皇子御降誕、後の仁明天皇である。弘仁4年(813)堂塔をご建立、船寺と号し、水田10町山地360町を寺領として下賜された。境内の4~16町、堂宇39宇、南山随一の精舎でその宏壮は周辺を圧倒した。
船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。
岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。
当地は中世には、南都(奈良)の寺院の世俗化を厭う僧たちの修行の場となっていた。
岩船寺の創建事情は明らかでないが、行基による創立を伝え、前身寺院は現在地の南方の鳴川(現・奈良市東鳴川町)にあったという。
近世の縁起によれば、岩船寺は奈良時代、聖武天皇の発願により行基が鳴川の地に建立した阿弥陀堂がその前身であるという。
創建年次については天平元年(729年)とも天平勝宝元年(749年)ともいう。
鳴川にはその後空海(弘法大師)が善根寺(鳴河寺)を建立。
空海の甥であり弟子でもあった智泉が、嵯峨天皇の皇子誕生を祈願して、善根寺の東禅院灌頂堂に報恩院を建立したという。
その報恩院を弘安2年(1279年)に現在地に移し、同8年(1285年)に落慶供養を行ったのが岩船寺であるという。
以上の伝承はそのまま史実とは考えがたいが、『弘法大師弟子伝』(貞享元年・1684年成立)には、大同年間(806 – 810年)、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が皇子の誕生を祈願して報恩院を建立し、智泉が呪願(願文を読む僧)を務めたとある。
岩船寺本尊阿弥陀如来坐像の像内には天慶9年(946年)の銘があるが、この像が当初から岩船寺の本尊であったという確証はない。
「岩船寺」の寺号の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の銘記で、そこには弘安10年(1287年)の年記とともに「於岩船寺僧」の文字がみえる。
この年号は、上記寺伝にいう岩船寺落慶供養の年(弘安8年・1285年)に近く、鳴川にあった「報恩院」がこの頃現在地に移った可能性を示唆している。
現存する三重塔は室町時代の嘉吉2年(1442年)の建立である。
江戸時代には浄瑠璃寺と同様、興福寺の末寺であった。

本堂 – 昭和63年(1988年)に再建された建物で、平安時代の阿弥陀如来坐像が安置されている。
三重塔(重要文化財) – 室町時代の嘉吉2年(1442年)に建立された三重塔で、初重の内部には来迎柱を立て、須弥壇と来迎壁を設ける。
十三重石塔(重要文化財) – 13個の笠石を積み重ねた高さ6.3mの十三重塔。鎌倉時代。


五輪塔(重要文化財) – 鎌倉時代


なお、境内の裏山には白山神社と春日神社の社殿が並んで建ち、向かって左の白山神社本殿は重要文化財である(室町時代建立)

木造阿弥陀如来坐像
岩船寺の本尊で、定印を結ぶ阿弥陀如来像である。
62代村上天皇の天慶9年(946)9月2日造立の銘がみられる。両掌で定印を結び結跏趺坐、像高2.8メートルを超す坐像の頭・体の根幹部を一材から彫出する。
太造りの体躯や一木造の構造は貞観時代彫刻に通じる要素だが、衣文は彫りが浅く図式的な藤原時代後期の作風に近づいており、藤原時代後期への過渡期に位置する像である。
貞観時代から次の藤原時代がもうすぐに来るであろうことを思わせる。
仏像彫刻史の上では尊ぶべき尊形である。
厨子入木造普賢菩薩騎象像 - もと三重塔に安置。
像高39.5cm、象高25cm 樟の一木造で平安時代後期の作である。
 本堂には、普賢菩薩騎象像が厨子に入って安置されています。普賢菩薩像は平安時代に造立されたもので、菩薩像が乗っている白象は後世に補われたものです。厨子は後壁に法花曼陀羅を描いた南北朝時代のもので、永正16(1519)12月遍照院覚忍房を本願とし、大工国定長盛・藤原弥次郎が修理した銘があります。


石室不動明王立像(鎌倉時代)重要文化財

花崗岩製で前面2本の角石柱を立て、その上に寄棟造り一枚石の屋根をかけた珍しい建築、奥壁の一枚石に薄肉彫りの不動明王立像を祀る。「応長第二初夏六日 願主盛現」の銘が線刻されている。

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