京都ゆうゆう歴史街道いづみ路読本 笠置山寺

京都ゆうゆう歴史街道いづみ路読本 笠置山寺
京都府相楽郡笠置町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は鹿鷺山(しかさぎさん)。
本尊は弥勒仏。
開基は大友皇子または天武天皇と伝える。
歴史的に南都(奈良)の東大寺や興福寺などと関係が深く、貞慶などの著名な僧が当寺に住まいしたことで知られ、日本仏教史上重要な寺院である。また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる。
笠置山寺は京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸、標高289メートルの笠置山を境内とする。
01_笠置山寺-750

笠置は奈良方面からの月ヶ瀬街道と、京都方面から伊賀へ向かう伊賀街道の交わる地であり、地理的にも歴史的にも南都(奈良)との関わりが深い。
また、平城京の宮殿や寺院などの建築用材は木津川の上流から舟で運ばれたとされており、笠置は水陸交通の要地であった。
正月堂と弥勒磨崖仏
02_笠置山寺正月堂-750

笠置山寺は磨崖仏(自然の岩壁に直接彫り刻んだ仏像)の巨大な弥勒仏を本尊とする寺で、平安時代以降、弥勒信仰の聖地として栄えた。
笠置山は、標高は300メートルに満たないが、山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し、古くから山岳信仰、巨石信仰の霊地であったと推定されている。日本では太古から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えないカミの宿る場所とされていた。
笠置山はこうした巨石信仰、山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、次第に仏教寺院としての形を整えていったものと推定されている。
笠置寺の創建については諸説あって定かでない。
『笠置寺縁起』には白鳳11年(682年)、大海人皇子(天武天皇)の創建とある。一方、『今昔物語集』巻11には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勒磨崖仏の由来について、次のように伝えている。
しかし、そこへ天人が現れ、弥勒像を刻んだという。これが笠置山寺の弥勒磨崖仏の由来であるという。
以上の話はむろん伝承にすぎないが、笠置山寺の始まりが弥勒磨崖仏造立であったことを示唆している。
『東大寺要録』元慶元年(879年)条に「笠置寺八講始行」とあるのが笠置寺の文献上の初見であるが、実際の創建は奈良時代にさかのぼるものと思われる。
天智天皇の第三皇子である川島皇子(657~)はある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生してしまった。
鹿は断崖を越えて逃げ去り、自らの乗る馬は断崖の淵で動きがとれない。
そこで山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と誓願したところ、無事に助かった。
川島皇子は次に来る時の目印として、自分の笠をその場に置いていった。
これが笠置の地名の起こりであるという。
『東大寺要録』元慶元年(879年)条に「笠置寺八講始行」とあるのが笠置寺の文献上の初見であるが、実際の創建は奈良時代にさかのぼるものと思われる。その後、川島皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたところ、あまりの絶壁で思うにまかせない。
しかし、そこへ天人が現れ、弥勒像を刻んだという。
これが笠置寺の弥勒磨崖仏の由来であるという。
以上の話はむろん伝承にすぎないが、笠置寺の始まりが弥勒磨崖仏造立であったことを示唆している。
00_笠置山寺-750

「お水取り」の起源
また笠置寺には東大寺の開山で初代別当(寺務を統括する僧)であった良弁や、その弟子で「お水取り」の創始者とされる実忠にかかわる伝承も残っている。  
千手窟
伝承によれば、良弁は笠置山の千手窟に籠って修法を行い、その功徳によって木津川の舟運のさまたげとなっていた河床の岩を掘削することができたという。一方、良弁の弟子・実忠にかかわる伝承は次のようなものである。
笠置山には龍穴という奥深い洞窟があり、その奥は弥勒菩薩の浄土兜率天へつながっていると言われていた。
実忠はある日、龍穴で修行中、思い立って龍穴の奥へと歩いていくとやがて兜率天に至った。
03_笠置山寺千手窟
兜率天の内院四十九院をめぐった実忠が、そこで行われていた行法を人間界に伝えたのが東大寺のお水取りであるという。
貞慶の来山~元弘の乱 
後醍醐天皇の行在所遺址
笠置曼荼羅図(大和文華館蔵、鎌倉時代)に描かれた笠置山寺
平安時代後期には末法思想(釈迦の没後2,000年目を境に仏法が滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、皇族、貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かった。
永延元年(987年)、円融院の行幸(『百錬抄』)、寛弘4年(1007年)、藤原道長の参詣(『御堂関白記』)などが記録に残っている。
鎌倉時代初期の建久4年(1193年)には、日本仏教における戒律の復興者として知られる興福寺出身の僧・貞慶が笠置寺に住まいしている。
貞慶は藤原通憲(信西)の孫にあたり、鎌倉時代に台頭した新仏教(浄土教など)に対する旧仏教側の代表的な僧である。
学僧として名が高かったが、南都の仏教の退廃を嘆き、笠置に隠棲した。
以後、承元2年(1208年)、観音寺(海住山寺)に移るまでの十数年間を笠置で過ごしている。
この時期に寺は最盛期を迎え、伽藍が整備された。
建久5年(1194年)には般若台が建立される。
これは『大般若経』を安置する六角形の堂であった。
建久7年(1196年)には重源によって梵鐘(現存)や『宋版大般若経』が施入され、建久9年(1198年)には木造の十三重塔が建立された。
元久元年(1204年)には源頼朝が礼堂(弥勒磨崖仏を礼拝するための建物)の再興費として砂金を寄進している。
寛喜2年(1230年)には東大寺の学僧・宗性が入寺した。
元弘元年(1331年)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り、挙兵した(元弘の乱)。
笠置山は同年9月に落城、後醍醐天皇は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。
この戦乱時の兵火で笠置山寺は炎上し、弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離してしまった。
笠置山には弥勒磨崖仏の他に薬師石、文殊石、虚空蔵石、両界曼荼羅石などがあり、かつてはそれぞれに線刻の仏像や曼荼羅図が刻まれていたが、兵火でほとんどが失われ、わずかに虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみが当初の姿をとどめている。
弥勒磨崖仏は高さ約16メートル、幅約15メートルの岩に刻まれたが、現状では光背の窪みが確認できる程度で像の姿は全く失われており、往時の像容は『覚禅鈔』(『図像集』)所収の図像や、大和文華館所蔵の『笠置曼荼羅図』(重要文化財)からしのぶほかない。
『笠置曼荼羅図』には、弥勒磨崖仏と木造十三重塔が描かれており、最盛期の境内の様子がこの絵から想像される。
なお、奈良県宇陀市の大野寺に現存する弥勒磨崖仏は笠置山寺の磨崖仏を模したものとされている。
寺は暦応2年(1339年)に再興されるが、文和4年(1355年)再び焼失。
永徳元年(1381年)には本堂が再興されるが(文明14年・1482年の勧進帳)、応永5年(1398年)に焼失するなど、再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなかった。
元和5年(1619年)、笠置は伊勢国津藩の所領となった。藩主藤堂高次は慶安年間(1648 – 1652年)に笠置寺本堂を再興した。
しかし、近世末には衰退して明治時代初期には無住となってしまった。
現在の寺は明治9年(1876年)に再興されたものである。
重要文化財④ 石造十三重塔 –
04_笠置山寺石造十三重塔

かつて存在した木造十三重塔の跡に建てられている。鎌倉時代末~室町時代の建立。
解脱鐘(梵鐘)⑤ – 建久7年(1196年)の作。
銘文から、大和尚南無阿弥陀仏(俊乗房重源)が笠置寺の般若台(『大般若経』を安置する六角堂)の鐘として寄進したことがわかる。最下部に6つの切り込みを入れて六葉形にするのは中国鐘に見られる形式で、日本の梵鐘には珍しいものである。また、銘文を鐘の側面でなく下面に刻むのも珍しい。
大仏殿再建の偉業を成し遂げられた俊乗房重源の「南無阿弥陀仏」署名銘文を持つ名鐘です。
05__笠置山寺梵鐘-750

笠置山寺本堂・正月堂
創建当初は弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)を礼拝するための礼堂として建立されましたが、戦火のために何度も消失し、その炎により、弥勒磨崖仏のお姿が消えたと伝えられています。
本来の正月堂は、752年頃に実忠によって建立。第1回の観音悔過の法要が行われ、東大寺
「お水取り」の発祥の地とされています。
笠置山寺行場巡り
06_笠置山寺行場巡り-750
正月堂を背にすると、前には右から「弥勒」「文殊」「薬師」と呼ばれる三つの巨石が並んでいます。「弥勒磨崖仏」は笠置山寺の御本尊で、高さ15mの壁面には、弥勒菩薩立像が刻まれていました。弥勒菩薩は、お釈迦さまの滅後、56億7千万年の未来にこの世に現れ、仏教を再興する仏といわれています。この仏は「天人の作」といわれ664年の作と伝えられています。
伝虚空蔵磨崖仏⑤
07_笠置山寺伝虚空蔵磨崖仏
12mの岩肌に刻まれた9mの仏さま。
その作成年代は、弥勒磨崖仏と同時期とも、平安時代とも伝えられています。
周囲に建造物がなかったため、元弘の戦乱の炎からも守られ、今日もそのお姿を拝むことができます。
ゆるぎ石⑥
08_笠置山寺ゆるぎ石-750

元弘の戦乱。笠置山を取り囲む鎌倉幕府方に対し、武器によって応戦していた天皇方でしたが、続く戦いの中、武器だけでなく、下から攻める敵方に岩を落として応戦したと伝えられています。
「ゆるぎ石」はその名残で、不安定なため、端を押すとゴトゴトと揺れるので、この名が付きました。
後醍醐天皇行在所⑦
09_笠置山寺後醍醐天皇行在所-750

笠置山の頂上に「後醍醐天皇行在所(ごだいごてんのうあんざいしょ)が作られています。
京の都を追われ、奈良、和束も安住の地でなかった後醍醐天皇は、この地に三種の神器とともに行幸され、この地が南朝の皇居となりました。
後醍醐天皇は、この地で「うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山のもみじを見る」と詠まれました
10_笠置山寺-谷間を流れる木津川-750

谷間を流れる木津川。
紅葉の季節から早春にかけて、放射冷却で冷え、風が穏やかな朝に谷間に立ちこめる川霧は雲海となります。
笠置山から見下ろす、朝日を受けて変わりゆく姿は、仙人にでもなったような気持ちにさせてくれます。
胎内くぐり⑧
11_笠置山寺-胎内くぐり-750

太鼓石⑨
大きな石が重なった間を路が通り抜けています。
この大石は「太鼓石」と言って上の石をたたくと太鼓のような音が出るそうです。石に少し隙間があり反響して太鼓のような音がでるといわれています。この辺りの急斜面には大小様々な花崗岩が今にも転げ落ちそうに露出しています。

12_笠置山寺-太鼓石-750

平等石⑩
屹立した石が多い中で、巨石の割には頂の部分が比較的扁平なので素足になれば石の上仁登ることができます。ここからの眺望は笠置山では最高のものです。ここは「行場では、東の覗き」と言われています。
13_笠置山寺-平等石-750
東には鈴鹿の山々、霊山、経ケ峰、北側には滋賀県境から木津川北部、西方には生駒山がはるかに望むことができます。
貝吹岩⑪
14_笠置山寺-貝吹岩-750

ここは狭い山上にあって開けた場所でこの広場には貝を伏せたような大きな石(貝吹岩があります。元弘の役の時この上で法螺貝を吹いて兵を集めたと言い伝えがあります。
京都府の最南端で奈良県との県境にあり、神が宿るとされた笠置山笠置寺。創建は約1300年前にさかのぼるともいわれ、東大寺の北東、直線距離にして約12kmに所在し、昔から東大寺の鬼門よけとして南都を守り続けてきた。
ご本尊は、切り立つように迫る、高さ約20mの一枚岩に刻まれた弥勒磨崖仏。その対面には、弥勒磨崖仏を礼拝するお堂が建っており、その名も「正月堂」。なぜ東大寺にはない正月堂がこの地にあるのか?
正月堂のすぐ近くに、「千手窟(せんじゅくつ)」と呼ばれる修行の場がある。『笠置寺縁起』によれば、東大寺の開山で初代別当の良弁(ろうべん)はこの千手窟にこもり、千手の秘法を行ったことで、東大寺造営のための建築用材を無事、調達することができたという。さらに、良弁の高弟・実忠は、千手窟から弥勒菩薩の住む兜率天(とそつてん)に入って、内院四十九院をめぐり、そこで行われた行法を人間界に伝えたとされる。これが「お水取り」である。
この法会(修正会)は、実忠によって752年1月に笠置寺正月堂で行われ、翌2月に東大寺二月堂で修二会として始められた。つまり、この正月堂こそ、今日まで1200年以上もの間一度も途絶えたことのない「お水取り」開始の場所である。
古刹1300年激動の笠置寺を刊行された小林義亮先生に敬意を表したいと存じます。
当初、2002年11月に初版を出されていて、300ページに及ぶ貴重な資料を頂くことができました。最初に笠置山寺を訪れてから半世紀に及ぶ歳月が流れ、後醍醐天皇に纏わる故事から、さらに天智天皇、天武天皇まで1300余年に及ぶ歴史を改めて学びなおす機会を頂きました。 今年5月に「京都ゆうゆう歴史街道いづみ路読本」の執筆に取り組むことになり、久方振りに笠置山寺を訪ねました。そして7月に訪れた際にご住職から小林義亮先生の「1300年激動の笠置寺」改訂版を頂くことができました。 初版から100ページもの資料が追加されていて、開くたびに感動が湧き上がってくるのを感じています。

『笠置山 激動の1300年』2002年 初版
副題 ある山寺の歴史
『笠置山 激動の1300年』2011年 改訂版
副題 ある山寺の歴史
著者 小林義亮 師

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